真玉橋の人柱

真玉橋は国場川にかかる橋で、1707年より前は木でできた沖縄の橋でした。
首里と豊見城間切を結ぶ重要な道路として利用されていましたが、川の幅が広く大雨が降るたびに橋は流されていました。

1707年の尚貞王の時代にこの木の橋を石の橋に作り変えることになり工事が始まりました。
ところが、ひどい雨が降るとせっかく築いた石の橋脚が壊れてしまい、工事はなかなかはかどらず役人たちは困り果てていました。
そんな時、老婆(ユタ)が役人たちに「この橋の工事には子(ね)年生まれの女で、しかも髪に七色の元結をした女を人柱にしない限り橋は完成しないと神のお告げがあった」と言ったのです。この頃の琉球では神女(ユタ)の神話は絶対的に信じられていました。
そこでさっそく子年生まれで七色の元結をつけた女探しが始まりました。が、探せど探せど条件にあう女は見つかりません。子年生まれの女はたくさんいても七色の元結をつけている女がいないのです。

ふたたび困ってしまった役人たちは、条件にあう女がどこにいるのか占ってもらうためにユタの家に向かいました。
その頃のユタはというと、たくさんの村人達を占ったお礼にともらった虹色に輝く元結で髪を結んで喜んでいました。そこへ役人たちが来たものだからユタは慌てて虹色に輝く元結をほどいたけれど、役人たちは見逃しませんでした。さらにユタの年を調べてみるとユタも子年だったことから、道すがら大きな声で泣きわめくユタを連れていきました。
翌日、ユタは自分が口にした神のお告げどおり、人柱としてたくさんの人たちが見守るなか橋の橋脚の穴に入れられました。その時、集まった人の中に自分の一人娘を見つけたユタは、「どんなことがあっても、人さまより先に口をきくではないよ。」と大きな声で叫びました。これがユタが残した最後の言葉でした。
その後、真玉橋は無事に完成しましたが、ユタの娘はよほどのことがないかぎり口をきかなくなったそうです。

ユタとユタの娘の哀れな姿を見た人々は「むぬみむんや、んまぬ、さちとゆん=(おしゃべり者は、馬の先を歩いて災いをまねく)」と言って用心するようになったそうな。
おしまい。

ユタが人柱となって橋が完成したその後のお話として、役人の息子が人柱になってくれたお礼にとユタの娘を花嫁として迎え入れ、夫婦は仲睦まじく美人で謙虚な奥さんをもらった男は出世したという後日談もあるようです。

真玉橋についても少し紹介しておきましょう。
この時に石造アーチ橋として完成したのですが、1837年に大改修され琉球王国消滅後も残っていました。が、1945年の沖縄戦の時に退却する日本軍によって破壊され、戦後に米軍によって鉄橋が、1963年には琉球政府によってコンクリート橋が架けられていましたが、2002年に再びアーチ橋が架けられました。この工事の時に石造アーチ橋の遺構が見つかり、今も国場川の両岸に保存されています。

真玉橋の人柱もあくまで言い伝えですが、伝えられているということはホントにあったことなのかもしれません。犠牲となった人がいるから安心して通れる橋が完成したということを頭の片隅にでもいれておくほうがいいのかもしれませんね。